穂積家とのお付き合い
穂積陳重氏は宇和島出身、錠二は金澤出身、共に大学南校・開成学校で学び、明治9年政府の第2回留学生として共にロンドンへ、錠二は化学、陳重氏は後ドイツへ移り法学を修める。共に帰国後東京大学に奉職する。以後終生、家族ぐるみのお付き合いがあった。
陳重氏のご子息と錠二家の息子達は年齢も近く、高等師範附属小学校・高等学校と共通し、又女児もまた年齢が近く、高等女子師範附属幼稚園・高等女学校でご一緒であった。「晴子さんは父上とご一緒に曙町宅へもよく遊びに見えた」こと「穂積先生ご逝去の電話を受取った時、おじい様はしばらく食堂のテーブルにもたれて涙を流されていらした。おじい様が泣かれたのは初めてだったので心に残った」と錠二逝去までそばに暮らしていた孫の岩村緑は懐かしむ。
市河三喜(1886−1970)英語学者 1912年 留学 1916年 東大助教授 1920年 東大教授 1937年2月〜1939年9月 (財)語学教育研究所理事長 1939年6月〜1957年3月 (財)語学教育研究所所長 1957年4月〜1970年3月 同 理事長 1959年 文化功労者 1960年 文部省の英語教育改善協議会会長 著書:「英文法研究」は、わが国最初の科学的研究書。「ラテン・ギリシャ語初歩」「聖書の研究」「英語学辞典」「英語発音辞典」「大英和辞典」教科書などの編纂多数。日本英文学会会長、日本シェークスピア協会会長などを歴任した。 祖父櫻井錠二はパーマー博士のみならず、市河三喜博士とも深い繋がりがあったことが改めて分かった。櫻井錠二没後理事長に就任している。 パーマー博士と新教授法の普及に尽力され、1966 (昭和41) 年、市河博士の傘寿 (80歳) を記念して、博士からの寄付金を基金として「市河賞」を設けた。英語学研究の優れた論文を公刊した若手研究者に対して「市河賞委員会」の審査を経て贈られている。 (財)語学教育研究所ホームページから抜粋 |